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津和野人 森鷗外

[ ] 2015年02月19日

立春も過ぎ、徐々に春の息吹も感じられる頃だが・・・まだまだ凍てつく季節の中である、1862(文久2)年1月19日、津和野藩町田横堀に元気な産声が響く――

森鷗外こと森林太郎だ。彼の誕生は、家族にとって希望に満ちた、大いに喜ばしい出来事。妹喜美子の著書『森鷗外の系族』に描かれ、祖父白仙が亡くなり、まだ悲しみも消えぬうちでの事。故に祖父の生まれ変わりのようでもあり、また森家は祖父、父共に婿養子だったらしく、久々の嫡男子ということで、喜びも一入だったに違いない。

門を潜って庭の左手には、彼の『うた日記』中の一節で、「扣鈕(ボタン)」の記念碑(佐藤春夫の筆)がある。森鷗外旧宅は、木造平屋建てのこじんまりとした造りで、玄関の左側に調合室があり、隣の角部屋の四畳半が勉強部屋。11歳までの多感な幼年時代を過ごす。そして、すぐ裏隣りが森鴎外記念館。彼に係る事を映像等で紹介し、偉大な業績に触れることができる。

さて、彼の本にはふる里に関する描写はあまりないが、唯一あの『ヰタ・セクスアリス』に幼少期を過ごした津和野の事が、自伝的に描かれている。「お父様は藩の時、徒(か)士(ち)であったが、それでも土塀を繞(めぐ)らした門構えの家に丈(だけ)は住んでをられた。もんの前にはお壕で、向こう岸は上(かみ)のお藏(くら)である。(中略)此の辺は屋数町で、春になって柳も見えねば桜も見えない。内の塀の上から真赤な椿の花が見えて、お藏の側の臭樀(からたち)に薄緑の芽が吹いているのが見えるばかりである。」と、家の様子や森家の状況を回想。

そして、8歳から上京するまでの10歳まで通った、藩校養老館への通学路を辿ってみよう。旧宅を出て、左側の津和野川沿いの小道を行き、常盤橋を渡った右側に、6歳の時の人生最初の師で、『論語』を学んだ村田美(よし)実(ざね)(藩校養老館教授)の家があった。「内から学校に往くには、門の前のお壕の西のはづれにある木戸を通るのである。木戸の番所の址(あと)がまだ元の儘(まま)になってゐて五十ばかりのぢいさんが住んでいる」と、登校の様子も描かれている。

また、別の角度から光を当てると面白い発見もある。周知の『走れメロス』『人間失格』『斜陽』と言えば太宰治。そして、社会派小説『砂の器』『点と線』の松本清張。互いに全く違うタイプだが、いくつか共通点がある。

まず、意外にも同い年ということ。太宰の方が古い感があり、清張は戦後のオイルショック以前という感じだが、太宰の死後5年経ち開花した遅咲きの作家。次に、太宰は若いうちから鷗外を崇拝し、亡くなったら彼の墓の傍に墓を建てて欲しいと望んだそうだ。東京都三鷹市の禅林寺に鷗外の墓がある。実は、その斜め向かいに太宰の墓もあるという。そして、彼を模倣してか、「太宰治」の字以外は刻まれていないと。今も献花が絶えないらしいが、まさかこんなエピソードがあるとはつゆ知らず・・・終の場を敬愛する鷗外の傍とし、安らかに眠っている

そして、清張と鷗外の繋がりは、鷗外を一生の関心事とし、『或る「小倉日記」伝』で昭和28年に芥川賞受賞。これを機に上京し、執筆に邁進したという。そう、作家としての原点に居合わせたのだ。

終わりと始まり―― 執筆活動の接点こそないが、鷗外は二人の大切な節目に絡んでいたのだ。やはり鷗外の魅力がもたらした偶然?・・・いや、世の全ての出会いは必然なのかもしれない。

ところで“一身にして二生を経る”、鷗外もそんな人物の一人だろうか?軍医で文豪でもあり、陸軍中将までのぼり、帝室博物館総長を歴任し、羨ましい限りの地位を得た。そして、大正11年に肝臓病で亡くなり、「余は石見の人森林太郎として死せんと欲す・・・墓は森林太郎の外一字もほるベからず」と、あの有名な遺言を残す。ここにも彼の生きざまが見てとれる。地位を極めた人ゆえに、人間の弱さを知り、自戒も込め遺訓したのだろう。

どんなに財産や地位や名誉があろうとも、あの世にまで持っていけない。こだわりや固執はナンセンスだと。例え大きなことができなくとも、自ら努力で片隅を照らす人間になれ、と・・・然り而して、鷗外の筆継ぎゆかん。

( 京 )